色があっても色のない絵。色がなくても色のある絵。
江山縦覧図巻 こうざんじゅうらんずかん
王キ(おうき)清時代/康煕23年 東京国立博物館蔵
↑倣元四大家山水図 (ほうげんしたいかさんすいず)
王原祁 おうげんき 清・17世紀 四幅 京都国立博物館)
こんにちは!フーテンことまちこ氏です。
今日は泉ガーデンの近くでブルガリのファミリーセールで人間観察をしたあと、
近くの泉屋博古館分館に立ち寄りました。
中国名画の展覧会で全然詳しくないけどあまり立ち寄らないエリアなのでせっかくなので行ってみたのですが、、、、
わたしがこの手の南画、山水画の展示にきていっつも思うこと、、、
本題に入る前にどうしても言っておきたい。
絵のタイトルが長すぎて名前が全然覚えられない!!!
上にあげた最初の絵は
①江山縦覧図巻 こうざんじゅうらんずかん
次は
②倣元四大家山水図 ほうげんしたいかさんすいず
ちなみにいただいてきた資料の英訳はこんな感じ↓
英訳のが超シンプル。
Landcapes、、、これはこれでいいのか疑問は残るけども、、汗
一番最初の画像で紹介した作品は今回のこの展示にはなかったものです。
本当は上の表にあるような王時敏という人の
江山蕭寺図巻こうざんしゅうじずかん 王時敏 おうじびん 明・崇禎8年 一巻 国(文化庁保管)
てのをこちらに紹介したかったのですが写真NGで検索しても中途半端にカットされたものしかないのでやめました。
検索するとこちらにのっているので詳細はどうぞ。
さて本題。
「色があっても色のない絵。色がなくても色のある絵。」
「空白が余白になる絵。空白が空間になる絵。」
あまり今回の展示ではフューチャーされてませんでしたが、わたしは展示室2室めのこの王さんシリーズが気に入ったのです。王時敏と王原きはおじいちゃんと孫の関係です。
水墨画は墨を使用して描くのでモノトーンですよね。
モノトーンなのでいわゆる色はないので、墨の濃淡や筆の使い方などで表現をします。
で、わたしがこういった水墨画を鑑賞していてスゴイと思う絵というのはモノトーンなのに色がわかる絵なのです。
山水図だったら山の緑や池の水、天候や湿度を感じられるような絵です。
つまり生きてる絵。
ちなみに合同展覧会などに行って彩色していても死んでるなーと思う絵もたくさんあります。完全に動かないモノになってしまっている作品は見ていてドキドキハラハラしな
い。
そして空白が余白になる絵というのも同様です。
2枚めの王さんの孫の方の作品ですが、これは四幅といって4つで1つの作品。
その最後のものですが、、画像だと雰囲気、全然出てないですね。残念。
ぜひ本物を展示室で見てください。
山水画でいうと、空白が余白になっている絵というのはつまり、ただ筆を入れていない場所のこと。あえてそうしていてもいなくても、結局は描いている人の力量ですが、
空白が空間になっている絵というのは空いている部分も景色になっているということ。
山水画なんだから当たり前じゃん!って思う人もたくさんいるとは思いますが、
同じような構図で描いても景色になっている作品とそうでない作品ってすっごい違います。
力のある作品だと、冬の景色を寒いなーって感じたり、新緑だとあ、爽やかな風吹いてるな〜って本当に感じますよ。
以上、全てわたしの勝手な判断基準です。
今回ブログに書いて改めて思ったけど、やっぱり画像って情報量、相当低い。
人が目で見ていることと機械の目を通した画像って全然違いますね。
AIがどうやって世界を見ているのか、世界を知覚できるのか?とか気になります。
ひとまず、行ってきてすぐにアウトプット完了。
このサイクルをうまく回していきたい。
ふーてんのまちこ氏
ブログは考える前に書いた方がいいと悟った件
↑フーテンが世にあふれていた時代、1968年。
こんにちは。ふーてんまちこしです。呼び名変えました。
やっぱり、コンスタントにブログ、書けないなー!!
なぜか?この悪循環である↓
1 これ書こう!と思う
↓
2 ああやって書こうとか、これ書いたらどうだろとか考えすぎる。
つまり人の目を気にしすぎる。
↓
3 めんどくさくなる
ということで、どーでもいいことでも、超おもしろかったことでもなんでも書くこととする。
わたしはなんのためにブログはじめたのか?今更自問自答。
自分のアウトプット量を増やすため、頭の整理のため
これ忘れてた。。。人のこと気にしてる場合じゃなかった。
癒し系&鉱物系シスターを引き取りました
左が妹(名前はまだない)、右が姉のすみれさん
はい。ふーてんです。
連続投稿してます。
連続投稿しているのは作品制作からの逃避だと思っていただいて間違いないです。
さて、私は活動派のスナフキンみたいな性格をしているのですが、何も用がなくても出かけないとエンジンがかからない人でして、
先日、お出かけする際にバッグを取り替えようと思って中身を入れ替えていたら
「薫風花乃堂」と書いてある怪しい紙切れが出てきました。
よく見ると、鉱物云々と書いてあります、、。これはどっかのお店で置いてあったのを持って帰ったままカバンに放置したやつだな、、と思い、
このタイミングも何かの縁と思い、そのお店に立ち寄ってみました。
場所は神保町の古書センター。神保町は好きな街の一つです。
なぜなら喫茶店がたくさんある街だからです。
そしてなぜなら、中高時代に「喫茶部」の部長だったからです。
ちなみに同時に「屋上部」の部長もやってました。部員兼部長の私一人ですけど。
さて、そんな元喫茶部の私ですが、古書センターの他のフロアもかなり気になり過ぎたのですが、今回はまっすぐ「薫風花乃堂」へ。
神保町名物なのに全然行ったことありませんでした。
いざ行ってみると、ほんとに小さなスペースにキャラの濃い商品がところ狭しと並んでおりました。写真がなくてごめんなさい。鉱物だけかと思ったら、アンティークの雑貨やら、よくわからない機械とかマニアックな本とか、化石とか色々あってお姉さんとお話しながら2時間くらいいました。
ふーてんは、こういう場所が落ち着くんですよね。古いものが大好きなのです。
で、たいがいこういう場所にくる人は同じような感性の人が集まるもので、途中、家から謎の計測器を持ち込んできたおじさんとか、石の研磨をやっているお兄さんなどがいらっしゃいました。
その間もお店のお姉さんは聞かずとも並べられた鉱物達の紹介を丁寧に愛情を込めて私に説明してくれました。が、説明の途中、
「・・これはこうこうこういう石で云々かんぬんかんぬんかんぬん、、、、、、
お腹すいた!!」
とちょっと出し抜けに大きめの独り言を言って、ごめんなさいねーと言っておもむろにレジ横でご飯の用意をし始めました。
仕方ないです。私の質問やらなんやらでずっとお相手してくださっていたので喋りっぱなしでした。
そして私はさんざん長居したあげく、東京刊行書会のフレイザーの「金枝篇」とイラン産のざくろ石の標本と迷って結局、全然違うこの二つの原産の違うフローライト(通称ホタル石)の標本を買いました。
なんか、、これ、、秋物じゃない?(文字を秋色にしてみました)
って個人的に思ったのと、どうしてもこの二つが姉妹に見えてしまって買わざるを得ないという気持ちになってしまったのです(全く押し売りはされていません)。
イメージ的にはアニメのキャッツアイのるいお姉さんと、末っ子の愛ちゃんっていうイメージです。
お姉さんはすみれにしましたが、妹の名前はまだ決まってません。
誰か、いい名前があったら教えてください。
(大丈夫かな、、これ読んでる人、ついてこれてるかな、、、、)
他にも魅惑的な鉱物標本がたくさんありました。
お話ついでに私の作っているものももしかしたら置いてもらえるかもしれませんので
また近日おしらせします。
ちなみにこちらのお店は来週から、神保町の古本まつりに合わせてセールもございますのでよかったら遊びにいってみてください。
はー。お姉さんとお話をしにまた行きたいな。
ふーてん
ディアンスナイト
松尾さんと記念撮影
ども。ふーてんです。
書きたいことはたくさんあるんですが下書きばかりたまっています。
溜める傾向にあるのはよくないなぁ。
わたし、つい色々溜めてしまう性格なのです。
お金は溜まらないけど。。。。(´Д` )
さて、ディアンスナイトというのは先週行ったコンサートのお話です。
ディアンスとはクラシックギタリストのローラン・ディアンスという方です。
ちょうど去年の今頃、ご逝去され、その追悼を含めたコンサートでした。
日本の珠玉の若手ギタリスト4名が揃った珍しいコンサートでした。
詳細はこちら↓
ちなみに其の一人の松尾さんは飲み屋で知り合い(飲み屋での人脈ばかりが増える、、、)何度かコンサートに足を運ばせていただいていますが、
今回は4名のそれぞれのソロやデュオ、4人のカルテットまでとかなり盛りだくさんの
内容でした。
すごく印象的だったのが、
ギターの違いもあるんでしょうが、とにかく4人4様、全然音色が違うってことです。
ギターは普段、松尾さんのライブばかり行っているのでその音色に慣れてしまっていたのですが、大萩さんの音色はどこかすごく男性的で爽やかな印象でした。
その後に松尾さんの音色を聞くとすごくしっとりとしていて、艶やかな印象を受けました。きっと同じ曲を4人に弾かせたらきっとその差がよくわかるのでしょうね。
ディアンスさんは生前、パリの国立高等音楽院で教鞭をとっていて、松尾さんと大萩さんはその薫陶を受けた二人です。
わたしはあまりギターは詳しくはありませんが、コンサートの曲はすべてディアンスの作曲、編曲によるものでその趣味の幅広さと編曲の素晴らしさを実感できたコンサートでした。こちらが当日の内容↓
素人のふーてんなんぞに批評されるべくもなくですが、ギターの楽器の特徴を最大限に活かされるような編曲がなされており、確かに原曲の良さを生かしてはいるのですが、明らかに違う魅力をたたえた編曲がなされています。
個人的には、ヴィラロボス賛歌とトリアエラがすごく気に入りました。
最後には4人での渾身のクインテットの演奏でした。アンコールでもまた「最初の便り」が演奏され、こちらもなかなか聴けない演奏で素晴らしかったです。
先日、「マチネの終わりに」という小説を読みました。
この主人公もクラシックギタリストの設定で、読みながら演奏家の苦悩みたいなものにちょっとした共感を覚えました。
なんでもそうかと思うけど、人は何か大きな体験をした際ににその時に得たものを言葉にしたり形にする、表現するのには、その体験が深ければ深いほどそれ相応の時間がかかるような気がします。
演奏も、ただ楽譜通りに演奏することはできても、その曲を通して何を自分は伝えたいのかとか表現したいのかということを掘り下げれば掘り下げるほど演奏は深まるし、より洗練されて不必要なものが削ぎ落とされた本質的なものになるのだと思います。確かに技術は大事だけど、技術はその感性を伝えるためにあるものだとわたしは思ってます。
言葉にならないものをすぐに言葉にしたり形にすると陳腐なものになるけど
定期的なアウトプットの訓練は必要。とくに私のような溜めがちな人は。
自分にしか作れないコアな作品を作れるようになりたいなぁ。
「此世は自分をさがしに来たところ 此世は自分を見に来たところ」
と、陶芸家の河井寛次郎さんは言っています。
知らない自分にこれからも、たくさん出会いたいですな!
ふーてん
山籠り中に偶然お会いした縄文仲間さまの話
縄文仲間さまのカフェ(大藪龍二郎さんのアトリエのすぐ下にあるカフェ「阿・吽」)
こんばんは、ふーてんです!
このブログを始める前に、1週間ほど奥多摩の方で山籠りをしていた時がありました。
頭の整理というか、ごちゃごちゃしていることをまとめたり吐き出したりする時間を持つためです。
このブログもある種、そういう意味合いで始めたところもあります。
エアビーで1週間、過ごしました。
あ、、ちなみに、山籠りの最初は秘境祭というお祭りに行くところから始まるんですが、これがまたディープな祭りでした。
フェスというもの自体初めてなのに、初めて行くフェスが山奥で300人規模の夜通しのフェス、、、、。
あんまり考えずに一人で行ったけど、それぞれ共通の知り合いがいる人に偶然出会ったりとか、いろいろあってどうにかなりました。
秘境祭での知り合いのバンドnetworksさんの演奏風景。ライブが最高です。
またこんどゆっくりご紹介します。↓
川沿いにはDJブースがあって反対側の山に向かってプロジェクションマッピングしてます↓
秘境祭は話が違うのでこれくらいにしておいて、
この山籠り期間に泊まっていた宿の近くを散歩していたら冒頭の大きな縄文土器風の陶器が見えて、、、、
あれ?と思って中にいた女性に聞いたところ、ご主人が陶芸家で10年くらい縄文をテーマに制作しているとのこと。ご主人の大藪龍二郎さんのアトリエが上の階にあり、下はカフェギャラリーになっています。
あらぁ〜と思ってわたしも実は縄文好きなんです(まだ初心者)とお話しましたら
気さくに色んな資料やらアトリエまで見せていただきました。
縄文の紋様は紋様をただつけるためではなくて、柔らかく練った土を上に引き上げる時に均等に上に伸ばす為に縄文原体を使っていたお話をお聞きしました。
こういう話は作っている方でないと出てこないお話ですよね。
縄文原体というのはこれです↓
木の棒に紐を色んな方法で巻きつけてこれを土器の上で転がして模様をつけます↓
これがいわゆる縄文といわれる所以になった縄の紋様です。
ちなみに写真の真ん中に貝殻がありますが、この貝殻の波模様もよく土器の模様付けに
使われています。
ものを作る目線から見る縄文は考古学視点の縄文とはまた別の視点があってとてもお話を聞いていて興味深かったです。
歴史の資料としてみる土偶や土器と、芸術的な観点で見る土偶や土器の印象は全然違うので、どちらの視点も織り交ぜて博物館でみれるとより楽しめそうですね。
アトリエ下のカフェですが、昔旅館だった建物を自分達でリノベーションして作ったそうでたいそう素敵な作りになっています。
青梅街道沿いの壁は取っ払って石垣がそのまま見えていたり、少しづつ集めた本やオリエンタルなアンティークとか、トルコのキリムとか、馬頭琴とか。
すぐ横に川が流れていてバーベキューもできる自然豊かな環境。
インスピレーションが湧きそうな居心地の良い場所でした。
わたしも自然の綺麗な場所にアトリエほしいなぁ。
川沿いの1階から暖炉の脇を登って入る
日本の民芸品や色んな国のアンティークが飾ってあります↑
うしろは青梅街道の石垣がそのまま↑
なんと帰りに虹が出ていました(うっすらダブル)!
ここを訪れたのが9月。そしてつい先週、表参道の桃林堂でやっていた展示に遊びにいかせていただきました。
ちなみに勝手に仲間扱いしていますが作家としても年齢的にも大先輩。
でも、こんな山奥まできて縄文通に出会うなんてほんと不思議でした。
また大藪さんの展示があるときにはご紹介いたします!
ふーてん
バナナVS石ころの何世代にもわたる戦い
女媧と伏義(中国の神様)
こんにちはふうてんです。
先日、古代オリエント博物館というところで定期開催されているナイト講座に先日行ってきました。
今回のテーマは『比較神話学からみた日本神話』。
どんな国にも、自分たちのルーツを語る物語、民話や神話があります。
そしてどこの国の神話にもよく出てくるのが創造神です。
で、それを作る時にどうやって人を作ったかという説はさまざまあって、、、
粘土で人形にされて命を吹き与えられた説(古代シュメールや旧約聖書)とか、
話相手が欲しいからとうもろこしで作った(マヤ文明)とか
いろいろ紹介してもらったんですがその中でもちょっと面白かったのが
インドネシアのセラム島ウェマーレ族に伝わる神話。
今の世の中になるはるか昔、
あるときバナナと石ころが喧嘩を始め、何世代にも渡って戦っていました。
そしてとうとう石ころが崖から落ちてバナナが勝利を納めました。
そのため、バナナのような人間が誕生しました。
石のくせに崖から落ちるってオイオイって感じですよね。
バナナは腐って亡くなる存在、石は永遠に形を留める存在を象徴しており、人はこの時に死んで再生を繰り返すことを選んだというのがこの神話の大きな特徴だそうです。
この話は「バナナタイプの死の起源神話」と呼ばれ、「金枝篇」という大著を書き上げた民俗学者のJ.G.フレイザーさんが命名した学説になっています。
日本神話の中で人間らしいものとして表現されているのは「人草」「青人草」というもので人を植物に例えたもので、イザナミの追っ手からイザナギが逃げるシーンに出てきます。また、日本神話にはバナナと石の対決のような、人の始まりを語る部分がありません。
ちなみに邇邇芸命(ニニギノミコト)の結婚というくだりでは、
ニニギノミコトという神様がコノハナノサクヤヒメという大変美しいお花のお姫様に出会い、お嫁にもらいたいとお願いしたところ父のオオヤマツミはもう一人の娘、イワナガヒメも一緒にどうぞと差し出したが、イワナガヒメは器量が悪かったので返したというお話があります。
イワナガヒメは岩という響きからもわかる通り永遠の命を司るので一緒に娶れば永遠の命がもらえたのですが、これを断ったためその後に生まれる子は命に限りのある存在となったとされたようです。コノハナノサクヤヒメがのちに産む3人の子供の一人が今の天皇に通づるとされています。
なので、ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメにはお墓があります。↓
しかし、こんな大昔から神様も面食いなんですね、、、。
この日は普段、慣れない名前がたくさん出てきて頭がパンパンになりました。
ガラスで土偶の道具を作ってみた
こんにちは。ふうてんです。
さて、以前縄文時代が好きだという話をちらりしましたが、その縄文好きのお仲間に誘われてただいまこちらで展示中です↓
私は以前はもっぱらジュエリーをメインに制作していました。
どんなジュエリーかというと、木の実や動物の骨などを現物から型取り、さらに加工したものやミツロウという日本古来の素材を原型に用いたものなどです。
勝手に『狩猟採集物ジュエリー』とか名乗って作っていました(現在進行形)。
たとえばこんなの。
下の写真は山椒を形どったリング、お米のピアス、松の実のピアスです↓
最近はジュエリー以外の制作もしたくなり、今回はこの展示の機会もあったのでガラスで作ってみようと思いました。
パート・ド・ヴェールという技法で、古代オリエントから続く超古い技法です。
簡単にいいますと。。。
①原型を粘土で作る
②その周りに石膏を流し固める
③石膏が固まったら中の粘土をほじくりだす
④空洞になった部分に原料のガラスをいれる
⑤釜で焼成
という流れです。なにより、この①の原型を作るのが大変です。しかもほじくるので
失敗したらおじゃんです(用語が昭和でごめんなさい)。という感じで最初に試験的に完成したガラスの土偶がこれです。
↓
はい。顔がおつぶれになっております。こちらは長野茅野市発掘のビーナス土偶をモデルにつくりました。
なぜ顔がつぶれたかというと、粘土をほりだす際に足のほうから頭に向けて掘り出すので奥のほうまで見えなかったり角度がついている部分が掘り出しにくいため、粘土が残ってしまったのですね。
これはこれで味があって私は嫌いではありませんが、、、
今回はこの粘土の代わりにワックスというロウみたいなもので代用してみたのですが、、、これがまた大変でした。
粘土とちがって取り逃がしは少いものの、ロウを蒸気で温めて流しとるのですがこの作業がほんとにアホかというほど時間がかかります。
今回は縄文の手仕事展ということで日常使いできるものがお題でしたので、
ボトルキャップとペーパーウェイトを作って見ました。
磨く前の図がこちら↓
このあと磨いて、この子たちのお目目やお口に宝石を入れて完成しました。
完成品はよかったらギャラリーまで足を運んでお目にかかってやっていただけますと嬉しいです(完成品のアップ写真を撮り忘れただけ)。
来年の春あたりをめどに個展をやりたいなぁー。
ここ最近、縄文を皮切りに古代への憧れが日々増しております。
久しぶりの投稿でした。
また風のむくまま投稿いたします。
ふうてん